Masuk二階建の古びた文化住宅。
それが恋〈レン〉の初めて見た光景だった。「……何て言ったらいいのかな。中々趣のある建物で」
隣にあるコインランドリーの窓ガラスで、自分の姿を確認する。
制服姿だった。「ま、まあ、これはこれで……10年後の蓮〈れん〉くんへのご褒美ということで」
そう言って苦笑いを浮かべる。
その時、ミウの声が聞こえた。「無事、到着したみたいだね」
「ミウ? よく分からないけど、ここが10年後の未来なんだよね。今とあんまり変わってない感じだけど、まあ10年ぐらいだったらこんな物なのかな」
「それもあるんだけど、説明してなかったね。ここでの恋ちゃんの目的は、あくまでも未来の君たちを見ること。だから恋ちゃんのいる時代になかった物とか、変わってる物。そういうのは自然と受け入れられるようにしてるんだ。例えば携帯電話とか、かなり変わってるよ。でも恋ちゃんは、それを当たり前に使うことが出来る。その方が、目的を果たす上でいいと思ったからね」
「そうなんだ。色々気を使ってくれてありがとね。それでミウ、今どこにいるの」
「僕のことは気にしないで。さっきも言った通り、僕はずっと恋ちゃんを見守っている。困ったことがあったらサポートもする。でも基本、恋ちゃんの前には現れないつもりだから」
「そうだったね。私ってば、もう忘れてたよ」
「あははっ。それと恋ちゃん、僕と話す時、声を出す必要はないからね」
「そうなの?」
「うん。僕の声、恋ちゃんの頭に直接響いてると思うんだ。恋ちゃんも僕と話す時、頭に思い浮かべるだけで大丈夫だから」
「……またすごいことを聞いたような……でも分かった。ミウがそう言うんならそうするね」
「ありがとう、恋ちゃん」
「それでミウ、ここはどこなのかな。私の街じゃなさそうだけど」
「蓮くんと会いたいって言ってたからね、一番早く会える場所に連れて来たんだ。ほら、そろそろ来るよ」
「え……」
ミウにそう言われ、恋の胸の鼓動が早まってきた。
蓮に会うのは、キスをしてから初めてだ。 そう思うと、急に緊張してきた。 「……」細い一本道を歩いてくる男。
恋の頭一つ分背の高いその男は、少し猫背気味で鞄を肩から下げていた。 口元から時折息が漏れている。疲れている様子だった。 彼は恋の姿を認めると立ち止まり、うつむき加減だった視線を恋に向けた。「……久しぶり、だね」
「蓮くん……」
両手を口に当て、頬を紅潮させた恋がそうつぶやいた。
黒木蓮司〈くろき・れんじ〉。大好きな彼氏の、10年後の姿だった。
* * *
「汚い所でごめんね」
鉄製の階段を上り、二階の一番奥の部屋に。
鍵を差し扉を開けた蓮司が、申し訳なさそうにそう言った。「気は使わなくていいからね、遠慮せず入って」
「は、はい。ありがとうございます」
いつも軽口をたたいてる幼馴染なのだが、今目の前にいる彼は、自分より10歳も年上なんだ。そう思うと、思わず敬語になってしまった。
そんな恋に穏やかな笑みを向け、蓮司が靴を脱いで中に入っていく。古びた電灯にぶら下がっている紐を引っ張り、電気をつける。
「適当に座ってて」
そう言うと蓮司は鞄を下ろし、台所に向かった。
「おじゃま……します」
恐縮した面持ちでそう言うと、恋も中に入り、丸テーブルの前に腰を下ろした。
「麦茶でいいかな」
「は、はい、大丈夫です」
「ははっ。だから、そんなに緊張しなくていいよ。君から見ればおじさんなんだろうけど、僕らは幼馴染の間柄だろ? 普段通りにしてくれた方が嬉しいよ」
台所から麦茶を持って来た蓮司が、グラスを差し出しそう言った。
「……ありがとうございます」
蓮くん、10年経ったらこんなに大人っぽくなってるんだ。それに……こんな優しい笑顔を向けてくれるんだ。
恋が照れくさそうにうなずき、グラスを受け取った。「今の僕が呼び捨てで呼んじゃうと、少し乱暴な感じになってしまう。だから君のこと、恋ちゃんって呼んでいいかな」
「は、はい」
「恋ちゃんは10年前の過去からやってきた。そういうことでいいんだよね」
「はい、そうです。蓮くん……ごめんなさい、私も蓮くんのこと、蓮司さんって呼びますね。蓮司さんは今の状況、どこまで理解されてるんですか」
「仕事から帰ってる途中で、急に頭の中に色んな情報が入って来たんだ。中々面白い感覚だったよ。しかもそのことを拒絶出来ず、全部受け入れてしまう。精霊の力、思い知ったよ。
君は10年前の恋ちゃんで、精霊の力でこの世界にやってきた。目的は、未来の僕たちがどうなってるかを見ること。 そして恋ちゃんは、僕と花恋〈かれん〉にしか認識出来ない存在」「はい、そういうことです。と言うか、花恋?」
自分のことを花恋と呼ぶ蓮司に、恋は違和感を感じた。
「ああ、うん……大学に入ったぐらい、だったかな。名前で呼び合うようになったんだ」
「そうなんですか……」
恋が少し残念そうな顔をした。
お互いに「レン」と呼び合うの、結構気に入ってたのにな。そう思いながら、麦茶を口にする。「でも、ははっ……何て言うか、自分たちがどうなってるかを見たくて、わざわざ時間旅行〈タイムトラベル〉してくる。やっぱり恋ちゃんは面白いね」
「そうでしょうか」
「うん、面白いと思う。そんな恋ちゃんだから、僕は好きになったんだと思う」
そう言って微笑む蓮司に、恋は赤面してうつむいた。
「あ、あのその……蓮司さん、髪、切ったんですね」
「え? ああ、髪ね……就職活動の時にね」
蓮は子供の頃から、ずっと長髪だった。肩に届くほどの長さで、耳が見えたことが一度もなかった。
前髪も長く、よく恋から「そんなに前髪があったら、視力が落ちるよ」とからかわれていた。 しかし今の蓮司は、両サイドが刈り込まれ、前髪も額が見えるほどに切り揃えられていた。 長髪の蓮のことも好きだったが、髪型のおかげでどこか陰のある雰囲気があった。 しかし今の蓮司を見ていると、覇気の無さは残ってるものの、恋をしっかり見つめる視線に力強ささえ感じられる。「就職活動の時に」
「うん。でも全然うまくいかなくてね、大変だったよ」
「今のお仕事って、その」
「今は工場で働いているんだ」
「そうなんですか」
意外な答えに、恋が驚きの声を上げた。
「うん。昔ながらの工場でね、夏は暑いし冬は寒いし大変だよ。ヘルメットもずっとかぶったままだし、まあそういう意味でも切っておいてよかったと思ってる」
「そうだったんですね……でもその髪型、いいと思います。その……男らしいって言うか、格好いいです」
「ははっ、高校時代の恋ちゃんに褒められるなんて、僕も嬉しいよ」
小さく笑い麦茶を口にする蓮司。
そんな蓮司を見る恋の中に、一つの疑問が生まれていた。二階建の古びた文化住宅。 それが恋〈レン〉の初めて見た光景だった。「……何て言ったらいいのかな。中々趣のある建物で」 隣にあるコインランドリーの窓ガラスで、自分の姿を確認する。 制服姿だった。「ま、まあ、これはこれで……10年後の蓮〈れん〉くんへのご褒美ということで」 そう言って苦笑いを浮かべる。 その時、ミウの声が聞こえた。「無事、到着したみたいだね」「ミウ? よく分からないけど、ここが10年後の未来なんだよね。今とあんまり変わってない感じだけど、まあ10年ぐらいだったらこんな物なのかな」「それもあるんだけど、説明してなかったね。ここでの恋ちゃんの目的は、あくまでも未来の君たちを見ること。だから恋ちゃんのいる時代になかった物とか、変わってる物。そういうのは自然と受け入れられるようにしてるんだ。例えば携帯電話とか、かなり変わってるよ。でも恋ちゃんは、それを当たり前に使うことが出来る。その方が、目的を果たす上でいいと思ったからね」「そうなんだ。色々気を使ってくれてありがとね。それでミウ、今どこにいるの」「僕のことは気にしないで。さっきも言った通り、僕はずっと恋ちゃんを見守っている。困ったことがあったらサポートもする。でも基本、恋ちゃんの前には現れないつもりだから」「そうだったね。私ってば、もう忘れてたよ」「あははっ。それと恋ちゃん、僕と話す時、声を出す必要はないからね」「そうなの?」「うん。僕の声、恋ちゃんの頭に直接響いてると思うんだ。恋ちゃんも僕と話す時、頭に思い浮かべるだけで大丈夫だから」「……またすごいことを聞いたような……でも分かった。ミウがそう言うんならそうするね」「ありがとう、恋ちゃん」「それでミウ、ここはどこなのかな。私の街じゃなさそうだけど」「蓮くんと会いたいって言ってたからね、一番早く会える場所に連れて
「……」 動かないミウを見て、恋〈レン〉は少し心配になってきた。「ええっと、これって……まさか死んじゃった、とかじゃないよね」 そうつぶやき見守っていると、やがてミウの体が小さく動いた。「あ、動いた……ミウ? 大丈夫?」 ミウが顔を上げ、一声鳴く。「いい感じの時間軸があったよ。今から10年後」「10年後、27歳かぁ……あ、でもちょっと待って。ミウってば今、何をしてたの?」「恋ちゃんの希望に沿える未来を探す為に、別の時間軸の僕と意識をリンクしてたんだ」「リンク?」「簡単に言えば、未来を見てきたってこと」「未来をって……すごいことをさらっと言われたような」「あははっ、深く考えなくていいよ。とにかく恋ちゃんの望みに応えられる、ふさわしい時間軸だと思う」「そうなんだね。ありがとう、ミウ」「それでね、行く前に説明しておくことがあるんだ」「うん。まずは着替えよね」「それは大丈夫、着替えなくても問題ないから」「そうなの? 私、寝間着のままで未来に飛ぶの? 流石にこのままじゃ、恥ずかしいと言うか何と言うか」「恋ちゃんは今から未来に行く。でも厳密に言えば、恋ちゃん自身が行く訳じゃないんだ」「よく分からない」「簡単に言えば、恋ちゃんの姿と意識、情報をコピーして10年後の世界で再構築するんだ。だから今の恋ちゃんの体はここに残るし、服装は……僕がうまくしておくよ」「また……すごいことをさらっと」「難しいだろうから理解しなくていいよ。とにかく恋ちゃんは、10年後の世界に行けるんだ」「うん、ミウがそう言うんなら分かった」「ありがとう。それで向こうに着いてからのことなんだけど、恋ちゃんの姿を認識出来るのは二人、未来の恋ちゃんと蓮〈れん〉くんだけだから」「二人だけ?」「そうでないと、ややこしくなっちゃう。突然10年前の恋ちゃんが現れたら、他の人も驚くだろ?
「恋ちゃんと彼氏くんの未来が見たいと」「うん、そう」 ミウを見つめる恋の瞳は、キラキラ輝いている。「私たちってね、子供の頃からずっと一緒だったんだ。親も仲がいいし、お互いの家にお泊まりとかもよくしてたの。 私はずっと、蓮〈れん〉くんのことが好きだった。蓮くんってね、いつも本ばっかり読んでいて、友達もいなかったんだ。外で遊ぶこともあんまりなかった。 でもね、私がお願いしたら一緒に遊んでくれるの。それがすごく嬉しくて……いつの間にか蓮くんのこと、好きになってた。 いつか付き合いたいって思ってたけど、でもほら、こういうのって女の方から言うのも恥ずかしいじゃない? だから私、ずっと待ってたの。蓮くんに告白されるのを」 瞳を爛々と輝かせてまくし立てる恋に、ミウは苦笑した。「半年前、ついに願いが叶った。蓮くんが告白してくれたの。そりゃもう、あの蓮くんだからね、分かるでしょ? 顔真っ赤にして、何言ってるのか聞き取れないぐらいぼそぼそと、なんだけどね」 いやいや僕、蓮くんのこと知らないし。ミウが心の中で突っ込んだ。「でもね、それでも嬉しかった。蓮くんが勇気を振り絞って告白してくれた。涙まで浮かべて、必死になって私に伝えてくれた。 その姿を見てね、私、ちょっとだけ後悔したの。こんなに大変なことなんだったら、私の方から告白しちゃえばよかったって。男だとか女だとか言う前に、自分の気持ちに正直になっていればよかったって」「まあ一理あるかな。人間の社会ではそういう役割、男の方がするみたいだけど、女の方から求愛する生物もいることだし」「でも嬉しかった。だから私、その場で蓮くんに抱き着いちゃったの。そして『私でよければお願いします』って言ったんだ」 そう言ってまた枕に顔を埋め、「きゃーきゃー」と声を上げる。「……その時ね、蓮くん言ってくれたんだ。『僕は恋を大切にする。恋が嫌がることは絶対にしない』って。それでもう、私の心臓は打ち抜かれた訳なのよ」「そして今日、その蓮くんとついにキスをした」「きゃー! きゃー!」
気が済むまで叫んだ恋〈レン〉が、何度もまばたきしながら子猫を凝視する。 この子猫……今、喋ったよね。 そんな恋を見て、子猫はもう一度かわいく鳴いた。 * * * 遡ること数時間前。 今日こそ蓮〈れん〉くんと。 そう意気込みながら、いつもの神社に着いた時だった。 恋の大きな瞳に、軒下で震えている子猫の姿が映った。「どうしたのかな、あの子」 駆け寄った恋は、子猫をそっと抱き上げた。「大丈夫? 子猫ちゃん、どうしたの?」 恋の問い掛けに、子猫は微かに目を開くと、弱々しい声で鳴いた。「この子震えてる……蓮くん、どうしよう」「呼吸が弱くなってるし、病気なのかも。病院に連れて行った方が」「だよね……でもその前に」 恋は子猫を膝に置くと、買っておいたミルクを掌に注いだ。「ひょっとしたらこの子、お腹が空いてるのかも知れないから」 そう言って手を向けると、子猫は鼻をひくひくさせた。そして口を開けると、舌で掌のミルクを舐めだした。「蓮くん! 見て見て! やっぱりこの子、お腹が空いてたんだよ!」 恋が嬉しそうに声を上げる。その笑顔に蓮は赤面し、「う、うん……そうみたいだね……」そう言ってうつむいた。 ミルクを舐める舌の動きが、力強くなっていく。そして最後の一滴を舐め終わると、ゆっくりと体を起こして体を振った。「やった! 子猫ちゃん、復活した!」 歓喜の声を上げて子猫を抱き締める。「よかったね、元気になって」 そう言ってもう一度膝の上に置くと、子猫は恋の手を舐め、元気よくジャンプして地面に降り立った。 そして二人を見てもう一度鳴くと、その場から走り去っていった。「行っちゃったね……でもよかった」 子猫の行った先を見つめながら、恋が微笑む。 その笑顔に蓮は見惚れ、そして静かに決意したのだった。
「私……キスしたんだ……」 * * * 夢の中にいるようで、頭がふわふわしていた。 ――胸の鼓動がおさまらない。 泳いだ後の様に重い体。脱力感が半端ない。 それなのに足取りは軽やかで、そのまま宙に浮いてしまいそうな。 不思議な感覚だった。 赤澤花恋〈あかざわ・かれん〉。高校2年の17歳。 夏休み前、終業式の今日。 いつものように幼馴染の同級生、黒木蓮司〈くろき・れんじ〉と寄り道をした。 子供の頃からずっと一緒だった二人。名前に「レン」が入っている二人は、互いのことを「レン」と呼び合い、その仲睦まじい姿は近所でも有名だった。 近所にある人気のない神社。 付き合い始めて半年になる二人は、学校帰りにいつもここに来ていた。 他愛もない日常の出来事や愚痴を話し、互いの気持ちを共有する。 とは言え、話すのはいつも恋〈レン〉の方だった。 無口な蓮〈れん〉は恋の話を聞き、静かに笑ってうなずいていた。 しかし今日。 蓮の様子が少し違っていた。 いつもの様にオチのない話を続ける恋も、その様子に気付き声をかけた。「ちょっと蓮くん、聞いてる?」「う、うん、聞いてるよ」「ほんとに? だったら京ちゃんが何したか言ってみてよ」「……ごめん、分からない」「ほらー。もう、どうしちゃったのよ。今日の蓮くん、ちょっと変だよ。もしかして具合でも悪い?」「そんなことは」「ほんとに?」 そう言って蓮の額に手を当てると、少し熱く感じた。「熱、ある? 帰る?」 心配そうに蓮の顔を覗き込む。 その時だった。 額に当てられた手を蓮がつかみ、そのまま握り締めた。「…&hellip